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コラム#3 – ヨハン・シュトラウスⅡ世の生涯

2025年はヨハン・シュトラウスⅡ世生誕200年!
ウィンナ・ワルツやポルカの作曲にその生涯を捧げ、圧倒的な人気から「ワルツ王」や「ウィーンのもう一人の皇帝」と称されたヨハン・シュトラウスⅡ世。その華麗な人生を紐解いてみましょう。

音楽家への道

ヨハン・シュトラウスⅡ世は、ワルツをはじめとしたダンス音楽の作曲家として名声のあったヨハン・シュトラウスⅠ世の長男として生まれました。幼い頃から父の影響で音楽に憧れを抱きましたが、父は音楽家という職業の不安定さを理由に息子たちが音楽の道に進むことを厳しく反対しました。ヨハンがこっそりヴァイオリンを練習しているのを見つけると、その楽器を壊してしまうほどの徹底ぶりだったといいます。
それでもヨハンの情熱は冷めることなく、ついには父が進ませた大学を退学して音楽を学び始めました。

「ワルツ王」へ

18歳で音楽家としてデビューを果たしたヨハン。しかし当時、ウィーンのダンス音楽界で絶大な影響力を持っていた父にとって、このデビューは脅威でした。父はあらゆる手段で息子の成功を妨害しようとしましたが、激しい親子の対立は後に和解へと至り、やがて音楽的な協力関係に発展します。
父の死後、ヨハンは父が率いていた楽団を継ぎ、ダンス作曲家としての地位を不動のものにしました。38歳のときには、父がかつて務めていた「宮廷舞踏会音楽監督」に就任。その一方で、父子で分担していた仕事がすべてヨハンの肩にのしかかり、過労により倒れることもしばしばありました。この状況が、弟たちのヨーゼフやエデュアルトが音楽家として活躍する契機となりました。

弟たちがデビューしてからもヨハンの人気は凄まじく、デビューから50周年を迎えた1894年10月には、ウィーン全体を巻き込んだ盛大な祝賀行事が開催されました。祝典は数々の演奏会、華やかな晩餐会など、連日にわたって行われました。ウィーン中の酒場や劇場でも祝賀演奏が繰り広げられ、新聞各紙はヨハンの偉業を称賛しました。このようなエピソードからも、ヨハンがいかに多くの人々から愛されていたかが伝わってきます。

「ワルツ王」から「オペレッタ王」へ

そんなヨハンがオペレッタに進出したのは意外にも遅く、45歳を過ぎてからのこと。この年に、ヨハンは「宮廷舞踏会音楽監督」の地位を末弟エデュアルトに譲り、オペレッタ作曲に挑戦します。この決断には、すでにウィーンでオペレッタ作曲家として成功を収めていたオッフェンバックの影響や、オペラ歌手であった妻ヘンリエッテの熱心な勧めがあったといわれています。
オペレッタ作曲に自信がなかったヨハンですが、最初の作品『インディゴと40人の盗賊』が成功すると、次第にその才能を開花させていきました。こうして、後にオペレッタの傑作『こうもり』が生み出されることになります。


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